葡萄の花房から――ささきふさとその周辺

大正から昭和にかけて活躍した女性作家、ささきふさと、その周辺の人、作品について語ります。

「ささきふさ」とは誰か?

ささき ふさ(明治30=1897年12月6日~昭和24=1949年10月4日)

大正時代から昭和戦前期にかけて活躍した、女性作家です。

大正10=1921年に断髪したことでも、世間の注目を集めました。

 

ささきふさ。本名佐佐木房子。

東京市に生まれました。

実父は「近代公園の父」と呼ばれる造園家、長岡安平(ながおか やすへい)、実母はとら。

六人きょうだい(姉、姉、兄、姉、兄)の末っ子として出生し、

12歳(明治42年)の時、横浜に住む次姉繁と大橋清蔵夫妻の養女となりました。

大橋家は熱心なプロテスタントの家庭で、16歳のとき、彼女も洗礼を受けています。

 

麹町富士見高等尋常小学校(現、千代田区立富士見小学校)から、

横浜市第一高等小学校(現、横浜市本町小学校)に転校。卒業。

神奈川県立高等女学校(現、神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業後、

青山女学院英文専門科(現、青山楽員女子短期大学)に学びました。

 

青山学院在学中に執筆活動を開始しました。

大正8=1918年、日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の懸賞論文に『貞操論』が一等当選。

これを機に、矯風会ガントレット恒子の秘書を勤め、矯風会青年部の書記としても活動しています。

この頃から、『護教』『六号雑誌』その他のキリスト教系機関誌に文章が発表され始めます。

その後、『読売新聞』の婦人欄、『女性改造』などに、執筆の場を広げました。

 

大正8=1919年、『イスラエル物語』(書き下ろしの児童向け聖書物語)を警醒社出版から上梓しました。

その後、同社から『葡萄の花』(大正9=1920年)、『断髪』(同10年)、『べテレヘムの宿』(同11年)に、相次いで出版しました。

 

大正12=1923年、「第九回万国国際婦人参政権大会」参加のため、渡欧。

翌13年5月に帰国。

これを機に、『文藝春秋』『婦人公論』『サンデー毎日』『改造』その他のメディアに活発に創作活動を展開します。

大正14=1925年、芥川龍之介の媒酌で、佐佐木茂索と結婚。

 

ふさの作家活動のピークは、昭和4=1929年から、同6,7年あたりまでです。

断髪洋装のファッションとあいまって、新興芸術派、モダニズム派の作家と目されました。

昭和8=1933年以降は、発表作品が激減します。

特に昭和16=1941年以降、昭和22=1947年までは作品が確認されていません。

戦時中は伊東市へ疎開していました。

 

昭和22年、「おばあさん」を『苦楽』に発表し、作家活動を再開。

東京大田区へ転居し、数編を発表するも、昭和24=1949年、「癌性腹膜炎」で死去。

享年52歳。

 

〈参考文献〉

・村松定孝、渡辺澄子編『現代女性文学辞典』(平成2年10月10日発行、東京堂出版)

・大屋典一「ささき ふさ年譜」(女流文学者会編『ささきふさ作品集』所収、昭和三十一年9月十五日発行、中央公論社)