葡萄の花房から――ささきふさとその周辺

大正から昭和にかけて活躍した女性作家、ささきふさと、その周辺の人、作品について語ります。

実父、長岡安平

ふさの実の父は、長岡安平(ながおか やすへい、1842-1925)です。

明治・大正期に活躍した、日本の公園デザインの先駆者として知られています。

 

■経歴■

1842(天保13)年、肥前国大村藩に、藩士の子息として出生。

1870(明治3)年、郷里の先輩で、明治新政府に仕えた楠本正隆に従って上京。

1872(明治5年)年、新潟県令となった楠本に従って、新潟に赴任しています。

1875(明治8)年、楠本は東京府知事となります。安平は78(明治11)年に、やはり楠本の下で働くため、東京に戻りました。

その後、東京府の土木掛、東京市役所、逓信省営繕課など移籍しながら、1914(大正3)年まで公園の設計や街路、並木の計画、整備に長く携わります。

明治30年代、東京市役所に在籍中には、日比谷公園の設計にも関わりました。

しかし、その案は採用されず、本多静六たちの案で建設されました。

 

安平は妻、とらとの間に、二男四女をもうけました。

長男隆一郎(第三子)は弁護士となり、昭和期、田中義一内閣の時の警視総監を務め、のちに貴族院議員に転身しています。

次男義男(第五子)は、東京外国語学校露語科で学び、卒業後は陸軍大学のロシア語教官となりました。ロシア文学の翻訳者としても活躍しました。

ふさは、末っ子にあたり、安平が五十代半ばの時の子どもです。

安平は、自らが改修に関わった芝公園内に居を構え、長年そこに住みました。

ふさも、この芝公園内の家で生まれ、姉の婚家の養女になるまでを過ごしています。

 

晩年の1923(大正12)年、安平はこの家で関東大震災を経験します。

この頃から安平は体を弱くしていたようです。

23年の春から、当分帰ってこないつもりで渡欧したふさでしたが、一年そこそこで帰国した一因は父の体調不安にあったとも言われます。

1925(大正15)年12月、脳溢血で死去。

 

■業績■

手がけた公園は東京にとどまらず、依頼を受け全国にわたっています。

また、個人宅の庭園の造園も行い、現存しているものもあります。

安平は、造園法を独学で学んだといいます。

明治期に欧米から近代的な公園の概念が輸入される中、それに影響を受けつつ、日本庭園の「固有の趣味性」を大切に造園しました。

主な設計の業績は、今戸公園、数寄屋橋公園、岩手公園、高知公園、福井市の足羽山公園、広島市の江波山公園岐阜市金華山公園など。

また、改修では、浅草公園、芝公園、飛鳥山公園などに関わりました。

 

《参考資料》

・長岡安平顕彰事業実行委員会編『祖庭長岡安平――わが国近代公園の先駆者』(東京農業大学出版会、2000年10月)

・津田礼子「長岡安平の公園デザインの特質」(『活水論文集 健康生活学部・生活学科編 』第46集、2003年3月)

・大屋典一「ささき ふさ年譜」(女流文学会編『ささきふさ作品集』中央公論社、昭和三十一年九月)