葡萄の花房から――ささきふさとその周辺

大正から昭和にかけて活躍した女性作家、ささきふさと、その周辺の人、作品について語ります。

『人事興信録』という書物

ふさがどのような家庭に育ったのでしょうか。

その手がかりを求めるために、まず紳士録、人名録の類を引いてみるのですが・・・

 

『人事興信録』なる書物があります。

明治三十六年から刊行開始。なんと平成二十一年まで刊行されていたとのことです。

大正年間から昭和三十年代前半までを調べてみました。

その時期の、この書物では著名人の経歴や家族関係にとどまらず、納税額、住所、電話番号、家の宗教に至るまでの情報が掲載されています。

個人情報保護に神経を尖らせる現在では考えられないことですが・・・

 

ふさの関係者で取り上げられているのは、二人。

夫の佐佐木茂索と、実兄の長岡隆一郎です。

ふさ自身は、この二人の家族として名前が挙がっている程度でした。

実父の長岡安平、養父の大橋清蔵については、項目として取り上げられていませんでした。

 

大正十四(1925)年刊の第七版の、長岡隆一郎の項から、新たに分かったことをまとめて置きます。

 

■母、とらについて■

安政元(1854)年の9月生まれ、東京の下村庄太郎という人物の妹とあります。

下村という人物については、未詳です。

末っ子ふさは、満年齢で45歳の時の子ということになります。

なお、昭和十八(1943)年刊の十四版では、まだ隆一郎の家族として名前が挙がっており、この年までは存命であったらしいことが分かります。

また、昭和二十六(1951)年刊行の第十六版では、とらの記述はなくなっています。

この間に亡くなったと推測されます。

 

■実兄、義雄について■

明治二十七(1894)年6月生まれであることが分かりました。

ふさのすぐ上の兄弟ながら、6歳離れていることになります。

義雄についての記述があるのは管見に入った限り大正十四年刊の七版だけです。

大正十四年の時点で義雄は30歳前後。

ここに職業、学歴等の記述がないのが不思議でした。

 

なお、「宗教」欄には「日蓮宗」とあり、それが長岡の家の宗旨であったようです。

特別にキリスト教に接近していたというわけではなく、ふさがクリスチャンであることに、実家との関わりは薄いようです。

 

長兄、隆一郎については、情報も多く、次の記事であらためて取り上げることにします。