葡萄の花房から――ささきふさとその周辺

大正から昭和にかけて活躍した女性作家、ささきふさと、その周辺の人、作品について語ります。

長岡隆一郎の略歴

■略歴■

明治十七(1884)年1月、長岡安平、とら夫妻の第三子として東京市に生まれる。

 麹町区鞆絵小学校、東京府立尋常中学校(在学中に府立第一中学に改称)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独法科に学ぶ。

明治四十(1907)年11月、大学在学中に高等文官試験に合格。

翌四十一年8月、大学卒業とともに内務省入省。

 内務省地方局勤務から、佐賀県、神奈川県、和歌山県の事務官、和歌山県の警察部長を歴任。地方を転々とする生活を送る。

大正四(1915)年、警保局警務課長兼衛生局保健衛生課長となり、東京勤務になる。

大正七(1918)年1月、戦時警察調査のため、欧米諸国視察(翌年11月まで)。

 後藤新平内務大臣の方針で、大量に若手官僚が海外視察に出された。第三回の派遣メンバーの一員となる。米英仏瑞独伊の他、ハンガリー、オーストリアを視察している。

大正八年、内務書記官兼内務監察官、次いで監察官兼内務省参事官になる。

大正十(1921)年夏、朝鮮、中国、台湾を視察する。

大正十一年秋、都市計画局長となる。在任時、関東大震災が起こる。

大正十二年10月、土木局長就任。

大正十三年12月、内務省社会局長官となる。

 在任期間五年六ヶ月。同潤会アパートの建設やスラム街の整理などの政策に携わる。

昭和二(1927)年、ジュネーブで開催された第十回国際労働会議に日本代表として出席。

昭和三年6月25日、警視総監となるが、田中義一内閣瓦解を受け、7月3日に辞任。

 世に「三日総監」と呼ばれる。その後弁護士を開業するが、その後登録を取り消している。辞職直後に、貴族院の勅選議員に任命される。

昭和九(1934)年11月、関東局総長となり、満州に渡る。

翌十年、満州国総務庁長となり、翌年まで在任。

昭和十五(1940)年、再び東京で弁護士を開業。

昭和二十一(1946)~二十六(1951)年まで、公職追放の処分を受ける。

昭和三十八(1963)年11月1日、死去。

 

■参考資料■

・長岡隆一郎『官僚二十五年』(中央公論社、昭和十四年)

・『人事興信録』

  第七版(大正十四年)、第十四版(昭和十八年)、第十六版(昭和二十六年)

  第十八版(昭和三十年)、第十九版(昭和三十二年)、第二十一版(昭和三十六年)

  第二十二版(昭和三十八年)

・『大衆人事録』(第十四版、昭和十七年)

・『人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前)編 す〜わ』(日外アソシエーツ、)

・『「現代日本」朝日人物事典』(朝日新聞社、1990)