葡萄の花房から――ささきふさとその周辺

大正から昭和にかけて活躍した女性作家、ささきふさと、その周辺の人、作品について語ります。

長岡隆一郎『官僚二十五年』から見る長岡家

ふさの生家、長岡家のことを探っています。

長岡安平・とら夫妻の長男が隆一郎(明治17-昭和38)です。

ただし、初子ではなく、上に二人の姉がいます。

隆一郎については前記事で略歴を掲げました。

内務官僚として長年活躍した人物だけに、ふさの家族の中でも、最も資料が多い人物です。

 

内務省は、今の国土交通省、厚生労働省総務省、自治省、警視庁・警察庁などが担っている業務を一手に担っていた省です。

昭和二十二年にGHQにより解体されてしまいましたが、この権益の大きさをみれば納得のいくところでしょう。

隆一郎は、大卒後すぐに内務省入りして、地方局からやがて本省で活躍します。

もちろん、関東大震災後の帝都復興事業、また昭和天皇の即位といった歴史的事件にも関わった一人です。

大正十一年、都市計画局長に就任し、佐野利器、内田祥三ら帝大教授とともに東京の都市計画に携わります。

結局その計画を告示する前に震災が起こり、その後同潤会などの事業に関わることになります。

彼は技術職ではなく、もちろん手がけた仕事は都市計画だけではありませんが、日本全国の公園を設計した父安平とのつながりを、こんなところで感じさせられます。

 

さて、隆一郎が昭和十四年に出版した自叙伝が『官僚二十五年』(中央公論社、昭和十四年二月二十一日発行)です。

これによれば、隆一郎は能吏というか、これと信じた仕事は、かなりの辣腕を振るってやり遂げるといったタイプの、熱血、豪傑タイプの官僚であったようです。

彼自身のエピソードも非常に興味深いのですが、今回はそれは措いておきます。

この自叙伝には、見事なほど、ふさについて記述はありません。

両親に関する記述、子ども(特に夭折した娘隆子)については多少ありますが、彼の兄弟姉妹については一言も触れていません。

それでも、長岡家の雰囲気について幾分かなりとも分かることをまとめて起きたいと思います。

 

■長岡家の「文学的環境」

 隆一郎は、自称「文学少年」だったようです。小学校時代には『小国民』の福島中佐のシベリア横断旅行の記事や、森田思軒『十五少年』に心を奪われたようです。

 府立一中時代には、同級生間で回覧雑誌を出すまで文学にのめりこみ、成績もかなり低下したと述べています。

 

  • 華やかな硯友社の勢ひはもう衰え気味だつたが、紅葉山人の「金色夜叉」などは文学青年を惹きつける充分な力を持つて居た。宿題は怠り、下読はすつぽかし、成績は次第に低下する。果は同級同好の少年の間に回覧雑誌を出すと云ふ処までのぼせて来た。但し我々仲間の文学少年の中で後に文壇に名を成したものは一人もない。(「学生生活を終るまで 四」p5~6)

 

 隆一郎の中学時代は、明治三十年代中ごろにあたります。

 ふさが生まれるのも、まさにその頃です。

 日清戦争後の若い世代にとって、文学熱は特殊なものではないのかもしれません。

 しかし、長岡家の子どもたちの中で、翻訳家になった次男義雄や、作家になったふさと比べ、文学とは縁が遠そうな隆一郎さえ、このような状態であったわけです。

 こんな息子に対し両親はどのような態度を取ったのか、まったく資料がありません。

 けれども、「学問」ではない、「(近代)文学」は、長岡家に早く入り込んでいたことは確かです。

 

 長岡家は、経済的には裕福というわけではなかったようです。

 一高・東大進学にあたり、父安平の郷里である長崎・大村藩育英会から借金をしていることからも推測されます。

 両親がどのような教育方針を持っていたのか直接的な記述はありませんが、そのような状況でも、私塾に通わせるなど、息子の教育に一定以上の関心を払っていたと思われます。

 

  • 芝の俗称仙台屋敷と云はれた一画に板垣と云ふ漢学の先生があつて、夜はそこに通はされた。小学生であるのに、初めから十八史略の素読をやらされて相当苦しんだが、之は後に大変役立つたと思ふ。(「学生生活を終るまで 二」p3)

 

  • (前略)英文学を原書で読み度い野心から、私は中学三年の時からかんだの国民英学社に通つて、生意気にも沙翁の「ジユーリアス・シーザー」や「ヴエニスの商人」などの講義を聴いて居た。夜九時の放課後に三菱の原や日比谷の原を通つて芝山内に帰るのは肉体的には随分の苦痛であつたが、然し当時は昼間の正課よりも夜学の英語の方に興味を持つて居たので、英語ではクラスのトツプを切つて居た。(「学生生活を終るまで 五」p7~8)

 

 隆一郎はその後、高等学校、帝大へと進み、独法を専攻します。

 文学熱はいつまで続いたかはわかりません。

 しかし、義雄やふさが物心つくころの長岡家には、かつて兄が読み古した本がある、という状況を想像することは可能でしょう。

 

■母とらについて

 『人名興信録』には、とらは「安政元年九月」(1854年11月に嘉永から安政に改元されたので、正確には「安政元年九月」はないことになります)に東京の下村家の娘として生まれたことが載っています。

 私の調査では、少なくとも昭和十八年時点で存命(満年齢で88歳?)です。

 

 『官僚二十五年』には、母についての記述はわずか一箇所です。

 父については、死のことなど、ある程度の紙数を割いているのですが。

 (なお、本ブログでは、安平については別の記事にまとめましたので割愛します。)

 

 任官一年目の隆一郎は、日大の行政法の講義も受け持ち、まだ独身であったため、懐も暖かく、夜外で飲み歩くこともあったようです。

 

  • 夜遅く帰宅すると、老いたる母は寝床に入りもせず私の帰宅を待つて居られた。之には酔も一時に醒める思ひがした。(「役人事務見習 二」p20)

 

 慈母であったのか、賢母であったのか・・・これだけで判断するのは難しいです。

 しかし、この時期のある階層の女性らしい折り目正しさがうかがわれる記述です。

 

 

《参考文献》

・長岡隆一郎『官僚二十五年』(中央公論社、昭和十四年二月二十一日)

・『人事興信録 第十四版』(人事興信所、昭和十八年十月一日)

・竹内甲子雄編『人事興信録 第十六版』(人事興信所、昭和二十六年十一月十五日)

藤森照信『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』(岩波新書新版赤309、1993年11月22日)

越澤明後藤新平――大震災と帝都復興』(ちくま新書933、2011年11月10日)