次兄、長岡義夫
前の記事から一年以上も経ってしまった。
お陰で、前の文体をすっかり忘れてしまった・・・。
全く別人のような文章になるかもしれないが、今回は、大橋房子=ささきふさのもう一人の実兄、義夫についてまとめておく。
長兄隆一郎と房子は、十六歳離れている。
そのせいか、隆一郎の自伝にも房子に関する記述は全くないし、房子の作品にもあまりこの兄の影は見えない。
一方、同じ文学の道を志した義夫という兄との縁は深いようだ。
房子の最初期の随筆集『葡萄の花』(大正九年、警醒社)の冒頭には、「よしを兄へ 房」という献辞が掲げられている。
同じ道を進む同志とでもいうような気持ちが、この件からもうかがえる。
長岡義夫とはどんな生涯を送った人だったのか。
残念ながら、充分な資料がまだ得られないでいる。
この稿は中間報告として書いておくことにする。
義夫は長岡安平・とら夫妻の第五子として、明治二十七年六月に生まれた。
なお、この生年については『人事興信録第七版』の「長岡隆一郎」項の記事による。
(ついでながら、私の写し誤りでなければ、この資料では房子の生年が「明治三十三年」と誤っている。どこまで信用できるか若干不安な資料ではある。)
房子が明治三十年十二月の生まれなので、三つ違いの兄ということになる。
大宅典一の「ささきふさ年譜」によれば、この兄の経歴は次の通り(原文は旧字体)。
これ以外は、結婚したのかどうかはおろか、没年さえも分からない。
では、どんなものを書いたのか。
彼の名前で翻訳された本は、次の7点が確認できる。
NDLサーチで検索し、重複する(と思われる)データを削っていった結果である。
- 『ドストーフスキイ全集』(10死の家の記録)、1921・新潮社
- アルツィバアセフ『最後の一線』前編・後編、1922・新潮社
- 『ゴルキー全集』(第七巻、「母」)、1929・共生閣
- ロプーシン(サイトの表記のまま)『蒼褪めたる馬』(世界名作文庫)、1932・春陽堂
- 『マキシム・ゴーリキイ名作選集』(第3、母)、1947・クラルテ社
- 『ゴーリキイ『母』、1950・クラルテ社
- マキシム・ゴーリキー『母』、1953・創人社
これを見る限り、ロシア文学の翻訳、紹介に取り組んだことが分かる。
5~7は、『ゴルキー全集』からの改版だろうか。いずれ現物を確認したいところ。
そして、1932年の『蒼褪めたる馬』以降、大きな仕事をしていないように見え、非常に気になる。
一方、雑誌や単行本に収められた論文はどうだろう。
いつ、どんな内容のものを書いていたのだろうか。
これもまたNDLサーチのお世話になろう。
ついでに、読売と朝日のデータベースも調べてみた。
1922(大正11)年
象(『読売新聞』5月18~27日、よみうりおとぎばなし欄に連載)
民謡及び聖楽時代の露西亜音楽(『詩と詩論』1-3)
1923(大正12)年
プーシユキンの歌劇(『詩と詩論』2-1)
ジブシーの歌(『詩と詩論』2-6)
1925(大正14)年
『桜の園』とモスクワ芸術座(『築地小劇場』2-2)
『三人姉妹』の初演まで(『築地小劇場』2-5)
1926(大正15)年
『累ヶ淵』と文楽座(『劇と映画』4-9)
露西亜歌劇を見て(『劇と映画』4-11)1927(昭和2)年
モスクワ美術座の揺籃時代(『劇と詩論』4-4、4-8)
1934(昭和9)年
流刑前後のドストエフスキイ(『浪漫古典』1)
1935(昭和10)年
果樹園世界の世界的革命児 イワン・ミチューリン(『農業世界』30-11)
1936(昭和11)年
ソ連邦に於ける果樹園芸の北進(『地理と経済』11 2-6)
イワン・ミチユーリン(『神奈川県之園芸』3-8、3-9、3-10)
1937(昭和12)年
ソ連邦に於ける果樹園芸の北進(ニ)(『地理と経済』3-4)
1939(昭和14)年
果樹園芸の画期的発展とミチューリン(米川正夫他編『ハ杉先生還暦記念論文集』岩波書店)
創作は確認できた範囲では、この『読売新聞』の「象」くらいしかない。
『読売新聞』の方は、妹の房子の方が先にデビューしていたことになる。
雑誌記事・論文の方では、1927から34年の間にブランクがある。
ただ、ロープシン『蒼褪めたる馬』の翻訳が32年に出ているので、全く何も著作がなかったわけではない。
驚かされるのは、1935年以降の動向だ。
それまでは、ロシア文学、演劇について、掲載媒体のニーズを踏まえながら書いているという印象がある。
私が実見できたのは、『築地小劇場』掲載の二本のみだが、主観をあまり出さずに書いており、学者肌の人の記事という印象だった。
が、1935年以降は、ほとんどイワン・ミチューリンなる人物に関わる論文ばかりとなる。
これは一体どういうことなのだろうか。
プロレタリア文学が大弾圧で壊滅するのが1934年。
ロシア文学=プロレタリア文学ではないのだが、これまでとは同じような活動ができなくなったことが考えられる。
この時も陸軍大学校に務めていたのなら、立場というものもあっただろう。
そこで、なぜミチューリンなのかはよく分からない。
ただ、ここに何か長岡家の血を見てしまうのは私だけだろうか。
園芸という分野は突飛な方向転換のように見えるけれども、彼の父、安平はそもそも東京府/市の造園技師で、造園家である。
それとも1935年に満州国総務庁長に就任した兄隆一郎に何か関わるのか・・・。
植民地経営や食糧増産などといった話題は、何か隆一郎につながるようにも思われる。
そして、何より気になるのは、1940年以降の著作がないこと。
ゴーリキーの『母』が、単に旧版をそのまま利用したのか、それとも何らかの改訂があるのか分からない。
戦後に出たものが、旧版を全く改稿することがなかったのだとしたら・・・
長岡義夫は、もしかすると、早くて1940年には世を去っていたのかもしれない。
そして、物書きとしての義夫の動向は、何となく房子のそれとも重なって見える。
房子(いや、この時期には「ふさ」となっているが)も、やはり1936年を境に、発表作品数が恐ろしく少なくなっているのだから。
なんと、ものを書く人々にとって過酷な時期であったことか。